拾遺


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...... 2008年06月12日 の日記 ......
■ リアルとリアル感とフィクション   [ NO. 2008061201-1 ]

昨日のスポーツ新聞で国営放送の朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」が最低視聴率の記録を更新したにも拘らずDVDボックスが好評な売れ行きをみせているとの記事が掲載されていた。

 

一分熱狂的ファンがいるらしいため売れ行きが好調なのであろう、との見解でした。

 

口コミで評判が広がっていてなおかつ、衛星放送を含め週四回放映したにも拘らずネットに動画が流出してはいないのでしょう、多分。

 

ところでこの作品、時々鑑賞しては妙な違和感を感じて、とうとう観なくなってしまった。

この違和感はなにゆえなのか自分でも不思議だったんですが。

 

ある日夫と鑑賞して夫が言うには

 

「チャリがなげえ」

 

 

・・・・・・・・・なるほど

 

指摘されて気付いたのですが劇中登場する若手落語家の一人に異常にもみ上げの長いキャラが登場していたのです。

リアルでは落語家という職業は高座に上がるとき以外は衣装や行動こそ常人とは違う部分が多々あるのですが

髪型だけはかなりコンサバなものなのです。

演じる演目が古典芸能が多いが故の制約なのでしょう。

 

ここで注意したいのは実際にもみあげが長かったり茶髪の噺家が存在したとしても、フィクションのなかではやはり異様な存在でありフィクションを構築する上ではやたらとリアルを移植すること=リアル感を追求すること ではない、ということでしょう。

 

しかもこのチャリの長い噺家の卵が登場する回においてシナリオ的説明や補足が一切なかった。

 

要するに作品世界においてチャリの長い噺家が居る必然性を視聴者に解説することもなければ、チャリの長い落語家が居ることをドラマに組み込むこともせず作品において生かすこともしていない、ということだ。

 

 

もっと全体を鑑賞して楽しむべき、という異論もあろう。

だが瑕瑾ゆえに気になるということの何よりの見本ではなかろうか。

 

かつて市川昆監督作品の映画「細雪」の感想を原作者谷崎潤一郎の夫人、松子夫人に尋ねたところ、一言

 

「わたくしの娘時代は船場では畳の縁を踏んだりはいたしませんでした」

 

だったそうです。

作中のヒロインたちそのままに船場のいとはんとして娘時代を過ごした松子夫人といたしては良くできた映画であればあるほど瑕瑾を見過ごせず、作品世界に埋没できなかったのでしょう。

 

 

フィクションの中でリアルを追求することは必ずしもリアル感の追求には繋がらなず、ディディールの詰めの甘さでいいフィクションが台無しになってしまう、という一例、でした。

 

 


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