拾遺


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...... 2009年07月17日 の日記 ......
■ 読書とか   [ NO. 2009071702-1 ]

 

「罪と罰」(上・中・下) ドストエフスキー著 江川卓訳 岩波文庫

「謎解き『罪と罰』」江川卓 新潮選書

 

いわずと知れた名作。

であるが、一度中村白葉訳版で読み通せず挫折したことがあるので、訳者を変えて読む。

 

 

前回読んだときは「読みづらい」という印象ばかり先立って、オモロイもクソもなかったんですが。

この江川訳は面白いんですよ。

ロシア的宗教観、ロシア的フォークロア、19世紀の帝政ロシア期の一般庶民の価値観などをある程度了解してから読むことによって読むことが楽しくなるし物語に深読みが利くようになるらしい。


江戸時代の価値観を知って古典落語を聴くとまた違う、みたいなものですか。

江川(敬称略)の「謎解き『罪と罰』」によると大作であることよりもこの「罪と罰」はドストエフスキー独特の回りくどい長まわしな描写の上に、青年の苦悩は主婦の無駄話のように反復横とびし、しかもなおかつ唐突に挿入されるエピソードで話の腰をぶった切る物語のグルーヴ感のなさに、引用の解りづらさが拍車をかけているのでなお更難解に思われてしまう作品なのだそうだ。

しかも、完訳している訳者もあまり多くない。

手塚治虫のマンガ版「罪と罰」ではラスコーリニコフの大地の接吻で物語が締めくくられているが、本来原作は金貸し老婆殺しを警察署に自首、逮捕、裁判を経て七年のシベリアで労働刑、受刑中反省したりしなかったりしながら無事勤め終えて娑婆に出てくることを予感させる、まで。

 

大地に接吻、以降のクソ長く感じられるエピソードの付け足し感が、このひとの訳注で引用を踏まえつつ読むと素直に感動できるのが凄い。

そして、この余計に思われた部分がある故にこの作品を近代文学の大著ならしめたのだなあ、と素直にドストエフスキー大先生に感心する。

 

 

ラスコーリニコフのシベリア受刑中のラスト間際のシーン。

 

その日も、よく晴れたあたたかい日であった。

(中略)

ラスコーリニコフは小屋を出て、川岸のすぐそばへ行き、小屋のわきに積んである丸太の上に腰をおろして、荒涼とした広い川面をながめはじめた。高い岸からは広い眺望が開けていた。遠い向こう岸からは歌声がかすかに流れてきた。日ざしをいっぱいに受けたはるかな草原には、やっと見分けられるほどの点となって、遊牧民の部落が点在していた。向こうには自由があり、ここの人たちとはまったくちがった人たちが生活していた。向こうでは、時間そのものが歩みを止め、いまだにアブラハムとその羊の群れ時代(ヨハネ伝第八章三十三節「人類の幼年時代」の意)が終わっていないかのようだった。

この描写が、向こう岸=自由、だけでなく向こう岸=罪を知らない時代 とちゃんと読める。

ここに恋人のソ−ニャがいつも見守ってくれていてたことに気付いたラスコーリニコフはその愛と強さに心打たれる。

 

この描写だけでも相当感動的なのにこの物語はラストをこう締めくくる。

 

〜彼は、新しい生活がけっしてただで手にはいるものではなく、これからまだ高い値を払ってあがなわねばならぬものであること、その生活のために、将来、大きないさおしを支払わねばならぬことも、すっかり忘れていた……。

 しかし、ここにはすでに新しい物語がはじまっている。それは、ひとりの人間が徐々に更生していく物語、彼が徐々に生まれかわり、一つの世界から、他の世界へと、徐々に移っていき、これまでまったく知ることのなかった新しい現実を知るようになる物語である。

それは、新しい物語のテーマとなりうるものだろう。しかし、いまのわれわれの物語は、これで終わった。

刑期を終えてから、ラスコーリニコフの本当の人生が始まる。

そしてそれは決して見通し明るいものではなく、ラスコーリニコフは前科者、ソーニャは元娼婦として時にそしりをうけることもあろう人生なのだ。

それでも、人は生きる。

人はみな、罪びと。


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