拾遺


[PREV] [NEXT]
...... 2008年11月27日 の日記 ......
■ 読書   [ NO. 2008112701-1 ]

「日本の鶯 堀口大學聞き書き」 関容子著 角川書店

 

昭和五十年代、たまたま丸谷才一と堀口大學の対談に同席するまでは一記者でしかなかった著者が堀口大學のファンになってしまい、明治の文壇から交遊録、ルーツにまつわる思い出、詩作論、よもやまばなしを聞き書いたエッセイ集。

 

新潟生まれの外交官を父に持ち、東京は本郷に生まれる。大學、という名前はここから由来する。(本名だったんだー)

与謝野寛、晶子夫妻に入門し、私淑し、慶応予科で生涯の友人となる佐藤春夫と出会い、父の勧めで外遊。

ヨーロッパで 画家のマリー・ローランサンに可愛がられ交遊する。

昭和初期にフランスではよほどの文学通じゃないと読まないといわれていたほど評価の低かったという(!)コクトーを翻訳して日本に紹介。

シャンソンになったアポリネールの「ミラボー橋」は詩を見ればああ、と思う方も多いことでしょう。

(私は萩尾望都の「この娘売ります!」でヒロインのドミニクが口ずさんでいたシーンを読んで初めて知りました)

 

「ミラボー橋」

 

 ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
      われらの恋が流れる
     わたしは思い出す
   悩みのあとには楽しみが来ると

      日も暮れよ、鐘も鳴れ
      月日は流れ、わたしは残る

   手に手をつなぎ顔と顔を向け合はう
       かうしていると 
     われ等の腕の橋の下を
  疲れたまなざしの無窮の時が流れる

      日も暮れよ、鐘も鳴れ
      月日は流れ、わたしは残る

   流れる水のように恋もまた死んでいく
      恋もまた死んでゆく
     生命ばかりが長く
   希望ばかりが大きい
                                    

      日も暮れよ、鐘も鳴れ
      月日は流れ、わたしは残る

   日が去り、月がゆき
       過ぎた時も
     昔の恋も 二度とまた帰って来ない
   ミラボーー橋の下をセーヌ河が流れる
 
      日も暮れよ、鐘も鳴れ
      月日は流れ、わたしは残る

 

どの項も非常に興味深くまた面白いのだが芸術論として詩人日夏耿之介との仲違いとエロスと芸術論ともいうべきあたりがなかなか面白い。

 

要するに堀口大學というひとは調べのいい歌を詠むばかりではなくかなりエロティックな歌を読む人だった。

人に膾炙された名詩はともかく、人前で朗誦するのはためらわれるような詩も発表しており、そこがお下劣だと日夏耿之介には厭われたらしい。

なにしろ西条八十、日夏耿之介と三人で発行していた同人誌(豪華執筆人ですねえ)が自宅に届いた時開封時、日夏耿之介は堀口の書いたページだけ油紙で包んでから雑誌を開いた、といいますから。

(今で言えば読みたく無いからその部分をホチキスで閉じてから読む、みたいなもんですか、大人気ない。後日、日夏本人に堀口大學が確認したところ、事実だと言ったらしい。)

 

友人の佐藤春夫は「まあ、エロイのもありなんじゃね」みたいな口幅ったい自爆コメントをしたなかで、渦中の人間でない萩原朔太郎が「エロとお下劣を混同して堀口の評価を下げないほうがいい。ただ、堀口の詩を詩たらしめているのは堀口の詩藻あってのことだから他人が真似無い方がいい」というニュートラルな評価でこのくだらない論争にとどめをさしている。

 

漫画で言えば永井豪のまねはしても、赤塚不二夫の真似はしないようなもんか。

 

 

 

 

 

...... 返信 ......
■Re:読書   [ NO. 2008112701-2 ]
みょうくさん、こんばんは。

口語自由詩ばかりになじんでいた私ですが、この堀口大學訳の「ミラボー橋」はさすがに有名なので知っておりました。
最初に読んだ時、はじめの二連だけで完璧な詩になっているなあと思ったものです。
あとになって、アポリネールがローランサンとの恋愛を歌った詩であることを知りました。

堀口大學というと、本人の作品よりも翻訳書のほうが有名な気がいたします。(『月下の一群』とか。)
作品をよく知らない上に、エロスとかいうと微妙な話題で、私的にはなかなかコメントしづらいです。

佐藤春夫は純愛の詩を多く書いていますが、谷崎潤一郎の妻を譲り受けたというスキャンダルがあったりしたので、友人へのコメントの内容も理解できます。

デカダンとリリシズムとダンディズムの詩人、萩原朔太郎は(二児を連れて離婚)いかにもこうしたことに首を突っ込みそうな人で、またいかにもという発言をしていますね。

朔太郎は北原白秋や室生犀星と交流があり、中原中也、三好達治、丸山薫らの口語自由詩につながる流れを作った人で、私はむしろこの人に興味があります。

エロスの要素がかすかに感じられると思える、高田敏子さんの詩をご紹介いたします。

  少女の髪

 父が愛でる黒髪
 母が愛でる黒髪
 季節の風が
 そよがせてゆく黒髪

 いつかやがて
 黒髪は愛でられる
 父でもない 母でもない
 ひとりのひとに
 少女の髪
 風にそよぐ髪

 遠くの遠くの丘で
 少年が呼びかけている
 目には見えない
 はるかな
 やさしいものにむかって_____

結局、エロスと感じるかどうかは受け手の感性次第ということなのかもしれません。

クリスタル 2008/11/27 23:23:37 
■おはようございます   [ NO. 2008112701-3 ]
私論でありますが、エロス芸術論争というものが語るほどのものか、と思うのはエロスがくだらないからではなく、エロス礼賛=ラヴ礼賛=生命賛歌=セックス礼賛、というコンセプトで表現されているにもかかわらず、エロティシズム=セックスという視点のみで語られる感性の痩せ方にあるゆえの誤謬ではないか、ということです。

詩的表現としてエロティシズムという話題を避けてまわるのは、例えて言えば、マグロもサバもアジも美味いのに、トロのみみてこれは魚、贅沢な食い物だといいながら、美味いけど、といいつつ喰らうようなものかと。

生へのダイナミズムを感じるもの、生きているものはおしなべてえろすいんです。


高田敏子さんの「少女の髪」

髪を愛でるという行為はかなり近しい人にしかさせませんから。
「恋に恋する時代」という硬質で清潔なエロティシズムかと。


みょうく 2008/11/28 08:38:47 

...... トラックバックURL ......
  クリップボードにコピー

...... 返信を書く ......
[コメントを書く]
タイトル:
お名前:
メール:
URL:
文字色:
コメント :
削除用PW:
投稿キー: