
「この国のかたち」(1〜6巻) 司馬遼太郎 文芸春秋 歴史小説の大家による死ぬ間際まで続けられた歴史エッセイと読むもよし、自身の小説に盛り込むには至らなかったなかった小ネタ披露として読むもよし、ついに小説化に至らなかった(至れなかった?」日露戦争以降の軍部の暴走についての精一杯の分析、そしてそれを省みての提言。 逸脱しがちの、ともしれば放埓にもみえかねないほどのばらんばらんの各項のテーマを連結する題名 「この国のかたち」 ではあるのだが、そんなに構えて読まんでもよろしい、好きに読んでください、といった筆者の肉声がきこえてくるような筆致に、飛ぶように読み進む。 本書を読んでいて、亡くなった私の中医学の師匠の講義を思い出しました。 語るネタならいくらでもあるけれど、もはや一から語るには自分には時間が無い、だから思いつくままに1つの症例、1つの本草についてしゃべるから、できればおのおの能力を磨きながら、吸収できる分だけしてくれ、といった語り口の講義だった。 本書の司馬氏の語り口と師匠のそれは酷似している。 当時の私は講義に引き込まれた。 テキストの内容そのものの理解もままならぬまま、師匠の語り口を必死にテキストに書き写していって、講義の時間(休憩を挟んで八時間)はあっという間に過ぎた。 末席を汚す不肖の弟子だった当時若かった私をよく目にかけてくださって可愛がってくださった。 それでも、師匠は私に中医学以外の知識以外のいろんなことを叩き込んでくれた 多角的に対象を観ること、総合的に対象を観る事、信じることと思い込むことはまた別、故に判断は一瞬で決まる、一瞬で観ることができなければそれは「観た」ことにはならず単に「見た」にすぎない。 「観る」ために技術と知識を磨け。 わが師と司馬氏の共通項の多さに、私は師に恵まれていたのだな、と思い起こし、わが身の不肖を恥じ入るのであった。 |